もやもや病人生

もやもや病と診断され、右半身が不自由になりましたが、「なすがままに、何とかなる」精神で結構明るく生きています!

先日、私が脳出血を起こし救急車で運ばれた病院へ行ってきました。
この病院は年に数回お世話になっていて、MRIや担当の先生の診断をして頂いています。

今までは、倒れた時から診て頂いていた先生だったのですが、その先生が転勤になり別の先生が私の担当医となりました。その初めての診察です。

前に担当して頂いた先生は優しい感じの方で、物の言い方も親切で丁寧な先生でしたので、今回の先生がどんな方なのか結構不安でした。

いつものように午前からMRIに耳栓をして(グワングワン めっちゃうるさいので)撮ってもらい、血液検査を受けます。診察はいつも午後からなのでその間に昼飯をとります。

実は私がここに来る一番の楽しみは昼飯で、食堂で昼飯を食べるのが大好きなんです。この病院が特別ではなく、食堂という場所で食べるのが大好きなんです。

話がそれますが、私が大好きな食堂というのは安くて量が多い、そして独特の雰囲気が漂っている(独特の雰囲気というのが説明できずにすいません)お店なのですが、最近では町中でも私の中の食堂と言われるお店も少なくなり、先日も近くにあった食堂も閉めてしまいました。
そんな中、この病院は私の中の食堂で安くて量が多くて、しかも旨い!
そんな至福の時を過ごしてから、午後の診察に向かうのでした。

私の名前が呼ばれ、診察室に入ると新しい担当の先生が座っていました。結構若い先生で(若いと言っても見た目なので歳はわかりませんが)見た目は少しきつそうな感じやなぁと思いましたが、話をしてみるとそうでもなく、親切に丁寧に説明をして頂きました。その説明の際に言われたのが、外科手術のことでした。

実は私は外科手術をおこなっていません。

脳出血で倒れて入院した際にもやもや病とわかり、外科手術の話を勧められていました。
私も色々考えました。もやもや病の方ならご存じだと思いますが、外科手術が今の治療方法としては最適な事であり、今後「生きたい」と思えば手術をするのが一番なのです。

そんな事はわかっているのですが、私にとっては初めての手術になりますので、不安もかなりありました。
以前の担当の先生は内科の先生で、手術に関しては「リハビリが終わってからでも良いので、よく考えてみて下さいね」と言ってくれましたので、リハビリが終わるまで私なりに色々と考えていました。

しかし色々考えていくと、わからない事や聞きたい事が一杯出てきました。
外科の先生の診察でその辺りの事を質問してみよう。その上で家族の為、もちろん自分の為に外科手術を受けようと決めました。

応募を済ませた私は、面接の日を迎え電車を乗り継ぎ訓練校へと出かけました。

面接官は説明会の時に色々と説明をしてくれて、応募するきっかけになった方でした。
その方はのちの担任の先生になる方で、話していると気さくな方でしたが、ちょっと変わった人やなという印象でした。

私は一般にいわれている良い学校を出たわけでもなく、大学も行っていません。
こういった所で教えている人は有名な大学を出ていて、頭の良い人はこんな感じなのかなぁと、その先生の学歴や職歴などは全く知らなかったし、性格や人なりも全然知らないのに、勝手にそんな事を思っていました。

ただ短かったですが面接で話した雰囲気は「優しい学者さん」というイメージで、この先生やったら大丈夫やと思いました。

なぜ大丈夫なのか?

すごい上から目線で言いましたが、私は学生時代から学校というものがあまり好きではなく、あまり良い先生とめぐり逢いませんでした。

中には本当にお世話になった先生もいましたが、印象に残っている先生はあまり良い先生ではない人達ばかりです。先生運というものがあるとすれば、運が悪い方だと思います。

今考えると、当時の私の態度もかなり悪いと思いますが、教科書を読む順番を飛ばしたりとか、学校に来るなとか言われたりなど色々な思い出がありますが、まぁ嫌な思い出です。

話が脱線してしまいましたが、この先生やったら大丈夫と私の中で思った時、「ここで勉強したい!」という願望が自分の中で生まれてきて、説明会で考えてた決意とこの願望が重なって、久しぶりにやる気と、ワクワク感と、期待感が自分の中で湧き上がってきました。

勉強したいと思ったのは、生まれてこの方なかったので、面接が終わり合否通知が郵送されてくるまでかなり不安でした。これまでの受験の合否の時はこんなに不安に思ったことがなく、「落ちたらしゃーない」と考えていたので、「勉強したい!」という気持ちは今考えても相当なものでした。

その不安の中 A4の封筒が家に届き見事に合格の通知を頂いて、6か月間の訓練校生活がはじまるのでした。

 私はもやもや病が原因で脳出血を起こしてしまい
右手、右足が動かなくなってしまいましたが
リハビリのお蔭で今では歩行も可能になり、右手もなんとか使える様にまでなりました。

しかし、歩行は可能にはなりましたが、「走る」という事はできません。

元々体が元気な頃から「走る」という事が苦手で、マラソンなどはもってのほか、よっぽどの事が無い限り「走る」という事をしませんでした。

電車に乗る時もそうでした。
ちょっとした距離を走れば間に合うという時も私は走りません。

「次の電車でいいわ。まだ間に合うし」と、理由をつけてまで「走る」という事をせず、歩いて行動をしてしまいました。

とりあえず「走る」という事が苦手であり キライでした。

なので今では歩く事しかできない私は、走れなくなった事はたいして大きな問題でもなく、逆に自分自身の言い訳として大義名分ができたので、うれしくはないですが、あまり悲しい事でもないのです。

しかし「走る」という事はキライでしたが、歩くという事は結構好きでした。

ちょっとした買い物をするのに、町中をブラブラ歩いてスーパーやコンビニへ行ったり
会社の出張などで色々な場所へ行く機会も多かったので、知らない町中を歩いて周るという事が好きでした。

あくまでも平坦な所を歩くという事で、山に登ったり階段を上がったりという事は、「走る」と同じくらい苦手でした・・・。

若い時などは電車代を浮かす為に何駅も歩いて数百円を浮かし、のどが渇いたと言ってジュースを買い、その浮かした数百円を使ってしまって、何をしているのかわからない行動をしていましたが、歩く事が苦痛ではなく好きでしたので「ジュースが飲めてトクした」としか思っていませんでした。

病気で倒れてしまった時は歩く事さえできなかったのが、今ここまで歩く事ができました。

以前と比べると気分よく「歩く」とまではいきません。

少しの距離を歩いても悪くなった右足はもちろん
それをかばって左足までもかなり疲れるし痛くなります。

けれども、ゆっくりですが「歩く」事はできます。

歩ける様にと、リハビリを一生懸命にして頂いた先生方に本当に感謝しています。

私がもやもや病だとわかった時に、色々と病気について調べました。
ひと昔前はネットというものがなく、調べものといえば本が中心でした。

ちょっとした調べものの場合は本屋さんに行き、ちょいと立ち読みなんかをして内容を頭に叩き入れ、情報を手に入れてました。
しかし、こんな特殊な病気だと本屋さんに行ったトコロで、なかなか情報を手に入れる事はなかったと思います。

そんな時は図書館に行ったりして調べる事になるのでしょう。

まず私の性格からいくと図書館にまで行って調べるような性格ではないのですが
さすがにこんな時は行って調べたかもしれません。
それを考えるとホントにネットは便利ですよね。

ネットで「もやもや病」と入れて調べると
たくさんのサイトが検索され、病気の事についての情報が色々得られます。

どんな病気かとか、どんな症状かとか、治りませんよ
みたいな情報がほとんどで、最初のうちはフンフンと読んでいましたが
私が本当に知りたい情報とは少し違っていました。

私が知りたかった情報というのは
いつまで生きれるの?という事でした。

すでに脳出血も起こしたし、右半身も不自由になったし
私の中であと残っているのはやはり、いつまで生きれるの?でした。

「大丈夫、病気っていうだけで死ぬことはないよ」って事を言ってもらえたら
もやもや病だという事はただの通過点で
右手右足は不自由にはなりましたが
終わった過去として自分の中で整理する事ができました。

しかし、調べていくうちにそうではないという事がわかりました。

人は生き物であって、どれだけ生きれるかという保証は誰にもありません。
健康な人だからとか、体が弱い人だからとかいっても、みんな同じように保証はなく、ただその人の状態などによって確率が良くなったり、悪くなったりするだけです。

私も同じなのです。

ただ、みんなと違うのは「もやもや病」というくじ引きの箱から、くじを引かなくてはならないという事だけなのです。

確率の悪いくじ引きを、毎年引かなければならないとわかりましたが
今まで生きてきて宝くじなんかに当たったこともないし
懸賞なんかも当たったこともありません。

まぁ「もやもや病」という当たりを引いたし
くじ運のない私は「これ以上は当たる事はないやろ」
と思いながら毎日を過ごしております。

以前にもブログで書きましたが、私は転職回数がそこそこ多いです。
自分から会社を辞めた事の方が多いですが、中には会社都合という理由で辞めた事もあります。
会社都合というものはその名の通り、私の意思ではなく会社の都合で辞めなければならないという事です。

まだ病気にはかかっていなかった、20代後半のお話です・・・。

その時に働いていた会社は業務を縮小することになり、私が所属していた部は全員解雇となりました。

そこそこ突然の事だったのですが、当時の社長は色々考えてくれて、出来るだけの配慮をしてくれました。

その時私は結婚もしていて子供も小さく
収入が無くなるには正直きつい事だったのですが、「しかたないな」とだけ思い会社を辞めることになり、その後私は、就活生として出発しました。
(何度目かの就活生出発です)

部全体の解雇だったので、もちろん私一人だけが会社をやめたのではなく
数名の人たちも同じように就活生として就職先を探していました。

その中の一人の人に
職業訓練校の説明会があるので、一緒にいかへんか?」と声をかけてくれました。

私は面白そうだったし、どうせ時間もたくさんあったし、何よりも「ヒマ」でしたので、一緒に行く事にしました。

20~30人ぐらいは入れる部屋で説明会は開かれ、人はそこそこ多かったと思いますが、皆さん真剣にその説明を聞いていました。

訓練校にある様々な学科の説明、就職先のフォローなど、とても興味深い話が色々聞くことができたのですが、そこに入るための手続き日はもちろん、訓練開始日もかなり先の話だったのです。

しかし説明会が終わる直前に一人の男性が前に出てきて
「実は私のクラスで定員割れをおこしていて、1次募集は終わってしまいましたが、今日まで2次募集をやっています。もし興味のある方は、ぜひ応募してください。」
とマイクで話はじめて、細かな説明もみんなにしてくれました。

それは6か月間の訓練コースで
広く浅くですが「物づくり」のイロハを教えてもらえるもので
電気の事から機械を使った製作、機械加工される部品の図面までと多種にわたり学べるコースでした。

私はその男性の話に夢中になり
直ぐにその訓練コースに行く事を決意して、応募する事に決めました。






一般的に学生と言われる人は
学校へ通っているでしょうし、社会人と言われる人は会社に通っていると思います。
別にこれは年齢とは関係なく、学校へ行ってるから学生で、会社へ行ってるから社会人と言った方がいいのかなぁと思います。

中学を卒業して働く人もいれば
定年退職後に勉強をする為に学校へ通う人もいると思います。
では、学校も会社にも行ってない人はなんて言うのでしょうか?

私の若い頃はフリーターとかプータローとか言いましたけど
最近はニートとか言うのですかね?

厳密にはフリーターとニートは違って
どちらかと言えばプータローとニートの方が近い意味で使われているのかなと思います。

では、会社を辞めてしまって就職活動をしている人たちは何と言うのでしょうか?
就活生?
ぐらいしか思いつかないのですが
フリーターの様な横文字のかっこいい名前はないのでしょうか。

もし、会社を辞めてと次の会社へ行くまでの期間を就活生とするならば、実は私は6回程経験しています。

日本人の生涯転職回数というのが平均2~3回ぐらいという事なので
私はその倍くらいの回数となります。

アメリカなどの海外でも平均5~6回というので、それに負けないぐらいの回数です。

もちろん、この回数よりも多いという人もいるとは思いますが
この回数というのは一般的にはあまり褒められたものとは言えません。

履歴書を書いてても、会社に入社しました、同社を辞めましたとズラズラ書く事となり、自分で見ても色んな意味で「すごいなぁ」と思うのと「なんやこれ」との思いが乱れ飛びます。

「これはキャリアの積み重ねです」と言えばかっこいい響きがしますが
「ただの飽き性です」と言っても通用するところが、ものは言いようやなぁと思います。

しかし、私の経験上この生涯転職回数というのは、就職する時にはマイナスイメージで不利になる事が多いですが、会社に入ってしまえば色んな話のネタになったり、経験話ができたりと
結構プラスにはたらく事が多いです。

生涯転職回数は「諸刃の剣」で回数を重ねれば重ねる程、強くなる?  
のでしょうかねぇ~。

集中治療室から一般病棟に移った私の部屋は4人部屋の入り口側で、残念ながら窓側のベッドではありませんでした。
ただ、人の話し声も聞こえるし、看護師さんや患者の人たちが目に入ってくるだけで「少し体が良くなったんちゃう」と勘違いを思わせるぐらい、気分的にはだいぶ楽になりました。

あと一般病棟と集中治療室にいた頃の大きな違いは何といっても
食事が取れるという事でした。

集中治療室にいた時は食事をとる事ができず
口にできるのは水ぐらいで
食べ物好きの私にとっては最高のイベントでした。

病院嫌いの私はもちろん入院する事も初めての出来事なので
いわゆる病院食も初めてでした。
私が知りうる「病院あるある」では、
病院食は不味いとか、味が薄いとか
良いあるあるは聞いた事はありませんでした。

しかし今の私には口に食べ物を入れれるという事が最重要課題で
不味いとか味がどうとかは私には全く関係ありませんでした。

お昼がまわった頃にこの病室に移ってきましたので、夕飯までは少し時間がありましたが
もうソワソワして仕方ありません。

だからといって看護師さんに
「何時から夕飯ですか?」なんて聞けません。
「体の見た目と同じやね」と思われるのが恥ずかしかったので・・・。

しかし、お腹が減っている訳でもありません。
ただ、ホントに単純に楽しみだっただけなんです。
ここで必死に訴える事ではありませんが(笑)

ガチャガチャと廊下から音が聞こえてきて
ついに私の所に夕食が運ばれてきました。
待ちに待った夕食です。

「あれ?どうやって食べんねん?」「右腕全く動かんやん」「そっか左手か!」
使った事のない左手を使い夕飯を食べますが
なかなかうまくいきません。

袋に入ったストローもどう開けたらいいかわからず、口と左手を使って袋をあける。
ストローを取り出してもジュースにストローをさせない。

「手が動かない」という事はこういう事なんやと
楽しみにしていた夕食が私に現実をぶつけてきました。

なれない左手を使って必死に食べて
なんとか食事はできましたが
やっぱりジュースにストローをさすことはできませんでした。
看護師さんが様子を見に来てくれて「ごめんね」
と言ってストローをさしてくれましたが
「これではアカン。自分でなんとかせんと・・・

倒れてから初めての、そして楽しみにしていた食事で私は決意しました。
プロフィール
もやもや病
もやもや病
2017
HN:
ぐっさん
性別:
男性
趣味:
海での釣り
自己紹介:
はじめまして、
ぐっさんと言います。
もやもや病という得体の知れない病気にかかり、右半身が不自由になりました。
なんとかリハビリのお蔭でかなり回復し、大好きな釣りがやっとできる様にまでなりました。
日常の事、病気の事など書いていきたいと思っていますので、これからもよろしくお願いします。
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